内ヶ島氏のご先祖は誰?( 〜1460年 )
内ヶ島(うちがしま)氏という名字、非常に珍しい名字です。 ところが現在でも内ヶ島さん、、地域的にはかたまって多く在住している地域があります。 この理由については後ほど、説明したいと思います。 さて、内ヶ島氏ですが文献・史料によれば信州松代(現在の長野市付近)から白川郷へ入ってきたと書かれていますが、これは本当なのでしょうか? 私が調べたところによると信州には内ヶ島氏という名前が出てこないのです。(見つからないだけかも?) さらにはあの、「楠正成」の末裔だと言います。 ちょっと待って下さい? 楠正成と言えば後醍醐天皇を助け鎌倉幕府を倒し以後、南朝方 の雄として活躍した一族です。 ところが、内ヶ島氏は何と、足利幕府八代将軍「足利義政」の命令で白川郷に入っているのです。 足利と言えば楠正成と戦った足利尊氏が開いた幕府。。。南朝方は敗北して離散してしまったはず。 その南朝の雄、楠正成の子孫と言われている内ヶ島氏が宿敵である足利幕府の配下に治まっていたのでしょうか? それも「奉公衆」だったと言います。 奉公衆とは、将軍直属の軍隊のことを言うそうです。 早い話、直属部隊で側近みたいなのです。 この異常接近にも何か秘密がありそうです。 他にも謎はあります。 何故、内ヶ島という名字を名乗ったのか? おそらく何か理由があったと思われますが、今のところ分かっていません。 

 しかし、そのヒントになるようなものがないわけではありません。 さらに時代は遡って鎌倉幕府成立前、関東に「猪俣党」という”悪党”の団体がいたそうです。 この悪党とは、悪さをする悪党ではなく、地方の小領主と言いますか、土豪の団体だったと思われます。 どうして、このような話になったかと言えば、なんとこの猪俣党の中に「内ヶ島五郎」なる人物がいたのです。 こちらの内ヶ島氏は武蔵国(現在の埼玉県深谷市)に居を構え、お城に近い館を持っていたと言われ現在も「内ヶ島館跡」として遺構こそありませんがお寺(永光寺)が残っています。 おまけに住所は深谷市”内ヶ島”にあります。 近年、内ヶ島氏のご先祖はこれらの人達ではないか?とも考えられるようになってきました。 だとすれば、前出の楠正成の末裔はどうなるの?ってことになってしまいますが、元々、楠正成ご先祖説もイマイチ怪しい感があるので、こんな考えもあるぞ!くらいに留めておいて下さい。(m_m) 猪俣党・内ヶ島氏に関する資料については、こちらを参照して下さい。

内ヶ島氏館跡 内ヶ島氏館跡

 内ヶ島館跡  写真提供 すずりん氏 )

 話は元に戻りますが、仮に内ヶ島氏が楠家末葉だとすると、楠氏について調べてみる必要があります。 楠氏もまた「悪党」と呼ばれていました。 また、忍者の系統にも「楠流」という派が存在します。 伊賀上野の忍者博物館へ行くとそのことが分かります。 楠正成自身、主戦法はゲリラ戦を得意としており、特殊技術集団と言ってもいいのではないでしょうか。 もし、特殊技術の中に「金堀」があったとすると面白いことになります。 内ヶ島氏は白川郷に入ってすぐ砂金の採れる場所を数カ所見つけて比較的、財力があったと言われています。 噂の域を出ませんが、足利義政が造営した「銀閣寺」の資金も内ヶ島氏が献上した、、、等という話もあります。 ただ、金の話についてはここでは詳しく話しません。 

 もう少し、出自についてこだわってみたいと思います。 内ヶ島氏が南朝方なのにどうして足利幕府の奉公衆として活躍ができるのか? ひょっとして寝返ったのか?それとも許されたのか?また、豊富な財力で取り入ったのか? そこまでは分かりませんが、奉公衆として歴史に登場するのは南朝方が敗れてから100年以上が過ぎています。 この100年という時間をどう考えるかによって変わってきますが、100年一昔・・・昨日の敵は今日の友、でもいいのではないか? と思います。

しかし、分からないのが信州松代です。 足利義政の命令で松代から白川郷へ移ってきたことはともかく、地元の松代の領地はどうなったのでしょうか? 国替えにでもなったのでしょうか? その後の松代周辺と言えば、ご存じ六文銭でお馴染みの「真田氏」の領地です。 松代に内ヶ島氏の足跡が残っていないのは、大名とか守護ではなく奉公衆という旗本みたいな武士団だったから目立たなかったのか? 

もう一つ、「家紋」についても述べておきましょう。 内ヶ島氏の家紋は「菊水」だと言われています。 菊水紋と言えば「橘系」で、楠氏の家紋も菊水です。 ただ、飛騨に残る史料によると最初は菊水だった家紋を「三巴」に変えた、、、とあります。 そこで疑問。。。 家紋ってそんなに簡単に変えられるの? なんて事になりますが、どうやら簡単に変えられたみたいです。当時は家紋だけでなく家系図まで偽造したり書き換えられたり・・・が当たり前だったようです。やはり誰もが名門でありたい!と考えるのが普通であろうと思いますが、内ヶ島氏の場合、ご先祖様が楠氏なら菊水、板東武者説なら関東に多い三つ巴紋と言うところでしょうか。

 
  
菊水紋          三つ巴紋

   


 

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