★ このページでは、内ヶ島氏と切っても切れない本願寺(照蓮寺)=一向宗(浄土真宗)と内ヶ島氏との関係を徹底的に調べてみたいと思います。 内ヶ島氏と照蓮寺は敵対関係から友好関係、後には合体とも言える関係へと発展していきました。少なくとも織田信長の登場までは・・・。 帰雲城のことは別にして飛騨地方(奥美濃を含む)における本願寺を調べていくと面白いことがたくさん分かってきました。 

国道156号線(庄川沿岸)にスポットを当ててみる

ここでは、国道156号線・・・と言っても郡上八幡から富山県高岡市付近までを中心に内ヶ島氏と本願寺の関係を調べています。現時点ではまだ調査を始めたばかりで、まだまだ真相究明には至っていませんが、そんな中でも今まで全く見えなかった内ヶ島氏と本願寺の関係、、、巷で言われてきたこと、また、作者が聞かされてきたこと、とは違った部分がたくさん見えてきています。調査の中心は何と言っても現地の図書館や資料館です。 これらは初めの一歩とも言えますし、宝の山とも? 多くの郷土資料に目を通していくと思いがけない本から思いがけない資料が出現します。また現地の地勢図(昔の字名などが載っていれば尚、嬉しい)などにも重要なヒントが隠されいることが分かりました。 現在この調査を二名で時間の許す限りおこなっている最中です。 数日で完了できるような調査ではありませんが地道にジグソーパズルを組み立てるの如く、頑張っていこうと思います。

  石徹白  砺波  高岡  高山  白鳥  郡上八幡  五箇山

 本願寺に関する疑問

  内ヶ島氏と照蓮寺(本願寺)の関係は驚くほど良好であったと言われていますが、本当にそうだったのでしょうか? 実際、北陸では一大名よりも本願寺(一向宗)の方が力を持ち政治にまで口出しをし、必ずしも良好な関係だったとは言えない状況も数多く存在していました。 飛騨の場合、特殊な例なのかもしれませんが、一揆らしい一揆は起こっていません。 では何故、北陸では日常的に起こっていた領主VS本願寺という構図が、飛騨では見られなかったのでしょうか? にもかかわらず、現在では内ヶ島氏と照蓮寺は憎み合っていたような如く書かれている書物もありますし、そのような話も伝わっています。 これらは、ひょっとすると後の政治的な思惑が絡んでいるのでは??と想像ができるわけです。 照蓮寺の内部資料には現在、「高山別院史」と江戸時代に書かれた「岷江記」(みんごうき)があり、かなり詳しく書かれています。 岷江記の場合、江戸時代になって編集されたと言うことは、金森氏が飛騨の領主であった時代のことです。 となれば、過去の内ヶ島氏とのことをどう書いたらいいのか? なかなか本当のことは書きにくいのではないかと容易に想像できます。 照蓮寺側の史料にしてもある程度は割引して解釈する必要があるだろうと考えています。そこで、内ヶ島氏と照蓮寺また金森氏も含めた疑問を洗い直してみようと考えました。 
 
   ・白川郷における内ヶ島氏と照蓮寺の本当の関係はどうだったのか?

   ・照蓮寺は何故、金森長近によって高山城下に移されたのか?

   ・内ヶ島氏の越中遠征の目的は何だったのか?

   ・内ヶ島氏は領民から嫌われていた、と言うのは本当なのか?
  



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